大切なものは、目に見えない。
私は、結局、認知発達心理学を勉強しています。一言で言うと、「ヒトという生物種の、ソフトウェアの部分(つまり"心")」について勉強しています。
ヒトという生物に、独自なものは何だろう。他種やロボットには難しいのに、ヒトが自然と獲得していくものって何だろう。
DNAや脳に書き込まれた設計図によって決まっている、といっても、なぜその図通りにうまくいくのだろう。
そういった問いから、私達は「こころ」にたどり着きます。
特に、私が関心を寄せているのは、「empathy共感」「comforting慰め行動」「self-consciousness 自意識」など。
・共感そのものを快と感じるメカニズムがあるのだろうか?
・自分と「同じ」対象に共感できる。自分と「違う」対象に共感できる。
自分と「違う」対象が「同じ」気持ちを抱いていることで、自分ではなく対象を「慰める」ことができる。
自分と「同じ」対象を「慰める」ことができる?
自分?他者?同じ?違う?
ざっと、以上のようなところ。
なぜ、そんなことを研究しようとしているの?
何かの役に立つ、こともある。でもそれは後付け。
知りたいから。
なぜ?
以下は、私個人の問題。
僕は、「ヒト」よりも「モノ」との関係を築くほうが得意な人間だ(あるいは、前者には時間がかかる、とも言えると最近気づいたが)。
でも、そればかりじゃ、ヒトとして、大丈夫なのだろうか、と、いつしか考えるようになった。
無理して変えようとして、死にかけたこともあった。
今は、基本的なスタンス(ヒトよりモノが得意)は、認めていいと思う。
それでも、やはり、開き直りきることはできない。
要は、自分で自分に歯止めをかけたいのだと思う。
言葉で、「ヒトにはコミュニケーションが必要だ!それができないお前は人でなしだ!」と罵られるよりも、
自分自身で、実証的に証明して、その「事実」に常に身体を晒し続けていたいんだと思う。
数字と言葉なら、数字のほうが優しいこともあるから。
数字だって言葉だって、それを使おうとする人の気持ちによって、救いにも凶器にもなる。怖いのは、その後ろにある、ひとの悪意。
僕はそう思う。ほんとうにそう思う。
僕は、言葉よりも、行動や、数値で伝えたいと思う。
それは決して、冷淡なことなんかじゃない。
どんな事実を突きつけようと、それ以上でも以下でもない。裏切らない。
そのうえに、その後ろには、人のこころがあるんだから。
僕は今日も、人のこころを持って、パソコンに向かう。
僕は、公正でありたいだけなんだ。